地方コンサート批評
キーロフ・オペラ
ショスタコーヴィチ作曲
「カテリーナ・イズマイロワ」

1996年11月5日、東京文化会館


11月前半に東京に数日行きました。ある夜、用事も会う人も無かったので、いきなり何かコンサートに行く事とし、各ホールに電話をして調べた所、東京文化でキーロフオペラの公演が有り当日券も多数残っているとの事、でもその時は演目を聞き忘れました。当日券を買って初めて表題の演目が分かりました。

そこで「あれ、聞いたことの無い題だな」と思いましたら、この曲は有名な「ムツェンスク郡のマクベス夫人」の後年の改作だそうです。その「・・マクベス夫人」とこの曲を日を続け並べて演奏すると言うのが、キーロフオペラを率いる指揮者ゲルギエフの今回の演出です。

その他の演目に「オテロ」「カルメン」と並んでいますが、今回キーロフオペラを聞きに行くなら、このショスタコーヴィチの兄弟作品を連夜聞き比べるのが、その要と言えるでしょう(S席ですと二日で合計六万八千円もしますが)。「オテロ」「カルメン」は客寄せパンダです(カルメンをやるボロディナ、オテロ歌うガルージンも聞いてみたいけど)。

で、私はラッキーにも、このショスタコーヴィッチのオペラの片方を聞く事が出来ました。やはり少々通好みの演目のせいか席が少しあいています。当日券を買いましたら、五時からプリスピーチと言うのが有って、演奏会前に演出家のおばさん(失礼)から、これから演奏される作品について、そしてその演奏などについて約40分ほど解説がありました。申し訳ないのですが、私は後半寝てしまいました(昨晩遅かったもので)。でも、こう言った事って良いですよね。最近は良くやるのでせうか?。


聞き終わって思うのですが、このオペラはその曲が一つの主題に集中している訳で無いので、その分解りにくい印象を与えるのだと思います。それで聴衆全体の反応は今一つの様にも思えましたが、私は大変素晴らし演奏であったと思います。ショスタコーヴィチのオペラは初めてで、最初はどうかな、って思っていたのですが、ずんずん引き込まれてゆき、大層感銘を受けました。

歌手陣は、私には特にその名を知る人は居ませんでしたが、何不足を感じない歌唱でした。しかし中でもとりわけ素晴らしいのが、指揮のゲルギエフです。甘美な旋律のアリア一つもないこの長いこのオペラに於いて、オーケストラが非常に雄弁にその場の状況、さらには作者の意図まで見事に描き出していて、初めて聞いたオペラながら全く飽きると言う場面がありませんでした。ここまで見事にまとめあげたゲルギエフの手腕と才能を、大変高く評価したいと思います。


私はオペラで演出についてあまりうるさくは言いたくは有りませんが、演出は少し説明するべき項目でしょう。幕が上がるなり舞台に大きなついたてのごとく、家を模したのでしょう、家型の簡素な隙間のあいた木張りのセットが迫ってきています。

このセットは、各部分が一部開閉可能となっていて、その開け閉めで場面を表現する演出となっています。舞台の端から端まであるこのセットで、裕福とは言え家の塀から一歩も外に出られない女主人公の状態を表しているようです。各部の開閉は有るにしろ、セット自体は最後の少しを除いて、ずぅっと舞台全面に迫っています。

巧いと言えば巧いのでしょうが、先にも書いたとおり、それが板を隙間をあけて張ってあるだけです。バックライトで表現を与えることにより各部で演出していますが、私には裕福な商売人の邸宅にはどうしても見えず、はっきり言ってアメリカの粗末な牧場の様な気がしてしまいます。

それに先に記した通り、その壁面セットがずっと全面にあって、オペラ自体は奥行きがあまり無い状態で、左右にも狭められた舞台で進められてゆきます。広い舞台を平面的に、また左右も狭められていますので、あまり舞台自体にそのダイナニズムが感じられません。

考えるに、演出家はわざとそういう閉塞感を出したかったのかも知れませんし、たまたま演出の出来る簡単なセットを考えたらそうなったのかも知れません。どちらにしろ、このセット自体が与える印象は、私にはこのオペラ自体から感じる印象と、有る面で似通っています。


先日TVでゲルギエフが出ていまして、これらの2つのオペラについて話しているのを聞きました。この「カテリーナ・イズマイロワ」は改作前の「・・マクベス夫人」に比べて、音楽的にはずっと完成度が高いと言うことです。ただ「テキスト」は、言葉が鋭くて最初のがインパクトがあり良い、と言うような事を言っていました。

「・・マクベス夫人」は若い頃に作っただけあり、その話の、そしてその音楽は、女主人公の愛や欲望、葛藤、悩み、そして破滅と言った収斂してゆく所がはっきりしていて居るように思います。

今回見た改作後の「カテリーナ・イズマイロワ」を見終わって、一見主役に見えるこの女主人公の人生がこのオペラの唯一の主題では無く、むしろオペラ各部に雄弁にして頻繁に現れる、人間の滑稽さの表現や、それへのあらかさまな嘲りの表現こそが、このオペラ第一の表現物ではないかと思えてきました。

さらに論を進めれば、裕福ではあるが屋敷の中から外に出ることを許されず、舅に監視され続けている女主人公、と言う設定のこの話自体が表現する、憂鬱になるような束縛感や閉塞感が更なる表現イメージとして迫ってきます。考えてみれば主人公は科人として捉えられた後も監視され続けているのです。(これらには先に書いたこの舞台の演出が影響を与えているかも知れません。)

そして、やはりそこには、ソヴィエトと言う体制のなかで、常に監視され続け、束縛を受け続けながら作曲を続けた芸術家、ショスタコヴィッチ自身を考えない訳にはいかないように思います。約30年を経た後、何故この様に改作されたかは(一般的な人気は初作に有るようです)、そう言うところに一つの回答が得られはしないかな、と思いつつ、東京文化のホールを後にしました。