阿波和三盆糖の生産地と歴史

現在和三盆糖が作られているのは、徳島県、香川県の両県のみです。共に原材料の竹糖が栽培されているのは、徳島県と香川県の県境にある阿賛山脈の南側と北側にあたり、同地域とも言えます。

上板町阿波和三盆糖は、この阿賛山脈南側(徳島県側)で取れた物を呼びます。具体的な住所は徳島県板野郡の上板町と言う町になります。一般に砂糖黍は南方の常時温暖な気候でのみ育つと思われがちですが、四国の地でもよく育ちます。ただ「竹糖」と呼ばれる和三盆糖用の砂糖黍は、現在南方で栽培されている砂糖黍とは見た目も、またそれ自体の味もかなり違う物です。

阿波三盆糖が作られている地域は、丁度阿賛山脈から南に延びる扇状地にあたります。従って日当たりは申し分ないのですが、水はけが良い土壌であって、江戸時代用水が無かった頃には水田が作りずらく、稲作の難しい地域でありました。

言い伝えでは旅の修行僧が立ち寄ったとき、九州にて同じような土質で砂糖黍が栽培されていた事を土地の者に伝え、それを知った丸山徳弥(後年、丸山姓をもらう)と言う若者が単身日向の国に赴き、砂糖黍の苗と製法を修得し帰ってこの地に砂糖黍栽培の礎を築いたと言われています。

日本の砂糖黍栽培の歴史は、徳川吉宗が全国各地に奨励したのがその始まりの様です。和三盆糖の原材料となる「竹糖」はその時代から土地に合った品種として残ってきた在来種と思われます。戦前期においては、まだ西日本数カ所にて砂糖黍の栽培が行われていた様ですが、細くて効率の悪い「竹糖」は、今では和三盆糖として使用される物を除き絶えてしまった様です。

水はけの良い扇状地と日照に好適な山脈の南斜面と言う条件が重なり、入植以来砂糖黍の作つけ面積は増えました。砂糖黍の収穫は、それ自体の糖度を上げるため、わざと遅摘みをし、大体12月がその収穫期となります。従って農家は冬の農閑期に収穫した砂糖黍を絞り、煮詰めて砂糖を作っていたのです。当時作られていたのは白下糖であり、これですと簡単な設備で製造できました。

やがて白下糖を精製して白い砂糖を作り出す技術があみ出され、和三盆糖の製造が始まることとなりました。世界にも例をみない、水で研ぐと言う和三盆糖精製の方法は、どのようにして発見されたかは良くわかりません。「昔、樽に入れた白下糖を運ぶおり、過って川に落とし引き上げた所、上部が水で洗われて白くなっていた。」と言う話も有りますが、物語としておくべきかも知れません。石の重石を架けて、てこの原理で糖蜜を絞り出す「押し舟」と言う機構は、明らかに当時のお酒屋の糟絞りを流用したものと思われます。

白く精製して和三盆糖とするようになると、それなりの設備を備えた農家が他の農家が栽培した砂糖黍を買い入れ、和三盆糖を自分の決めた適当な屋号と共に売るようになり、製糖所として成り立つようになります。

一時期は産地も広がり、徳島県では藍と並ぶ産物となった阿波和三盆糖ですが、戦後台湾等より安価な精製糖が輸入されるに伴い、一般向けの砂糖としての役目を追われ、急速に栽培面積が減りました。ただ、それ自体、風味と味を持つ和三盆糖は依然として和菓子には欠かせない物として使用され、和菓子専用の国内糖として製造され続けてきました。和菓子用と言う味にこだわった用途の為、品質の良くない地域から消えて行き、一時期増えた栽培地域も、良い砂糖黍が取れる所、のみ残ったと言えるでしょう。

現在阿波和三盆糖が栽培、製造されているのは、徳島県板野郡上板町と隣の土成町の一部です。近年食材ブームと共に裏方であった和三盆糖もその名を知られ、高級食材として一部のデパート等に並ぶようにもなりました。が反面、農業従事者の高齢化と農家自体の減少により、砂糖黍の栽培面積がさらに減少する傾向が有るのも事実です。